パン屋さんのパンをおいしく味わうにあたって

 せっかくの機会だから、パンのおいしい食べ方について

考えてみようと思ったわけだが、

せっかくの機会だから、ここではパン屋さんのパンを

おいしく食べるということに焦点を合わせてみたいと思う。

だって、せっかくの機会なのだから。

 

 

 

 そもそもパンとはなんだろうか。

なぜにこんなにふんわりと幸せみたいなものが詰まっているのだろう。

「パン」このたった二文字という短い名前に閉じ込められたおいしさは

計り知れないのだ。

ガムやイモ、マメとかでは満たされない。そう、パンでなければ。

二文字のおいしい食べ物の代表格、代名詞と言っていいはずであり、

僕はきっとパン以外に思いつかないだろう。

試しにそれらを並べてみてもいいが、そう例えば...

コメ、そば、ピザ、すし、カニ、にく、エビ。

はてさて、これはどうしたものか。どれも旨そうだ。

意外にもおいしい二文字が現れ始めてしまったではないか。

いや、これではいけない。このままではパンを語るせっかくの機会なのに

挫折してしまうではないか。気をしっかり持て、いいか?代名詞とはパンだ。

そう、ここはパンでなければ。

 

 

 

 朝食にパンとコーヒー。もしくはミルク。

これは日常のありふれた風景だと思う。

スーパーやコンビニに行けば、安価でいつでも買えるし、

ある程度なら日持ちもする。手軽な食べ物だ。

でも、やっぱりおいしいパンを食べるのであれば、

パン屋さんに行くのが一番である。

そして、せっかくパン屋さんに行くなら、

パン屋さんのパンをおいしく味わう方法を選ぶべきである。

ここからストーリーは始まるのだ。

 

 

 

 僕はいつも夕方にお散歩をしている。

仕事が終わって家に向かう疲れたサラリーマンや、

下校する中高生、夕飯の買い物に行くお母さんと子ども、

犬とお散歩するお年寄りたちとすれ違う。

毎日、ある程度同じルートを歩くけれど、

たまには気分転換に知らない道も歩いてみる。

そうすると新しい発見があったりして、長年住み慣れた町なのに、

まだまだ知らない町の風景があることに気づかされる。

というのも、テナントが入れ替わっていたり、新しいコンビニができたり、

田んぼだったところが分譲地になって、新築住居が立ち並んでいたり、

昔からずっとあったお店が閉店したり、空地になったりと、

町の風景は、季節のように移り変わっているからだ。

 

つい先日もそうだ。

僕の知らないうちに、町の駅前通りには小さなパン屋さんができていた。

車で走っていては気づかずに通り過ぎてしまうほど小さいし、

目立つような看板もない。

ひっそりと立たずむパン屋さん。いつからあったのだろう。

お店の雰囲気があまりに可愛かったから、

どんなパンを作って販売しているのかとすごく気になった。

お店の外壁にある小窓に目をやると、小さな木製の看板が置いてあって、

絵具で営業時間が書いてあった。

 

" 10:00~16:30 水・日休み "

 

「夕方五時前に閉まっちゃうんじゃ、土曜日にしか買えないな。」

そんなふうにして、火曜日の僕は独り言を夕暮れの空にそっと投げかけて、

小さなパン屋さんの前から散るように歩いて帰った。

つまり散歩とは、そういうものでもあるということだ。

どうやらおいしいパンは土曜日に待っているようだ。

 

 

 

 五月も終わりの夕方の風は、梅雨を目前にしてほんのり涼しい。

散歩道に並んだ木々の若葉や、畦道(あぜみち)の草花を撫でるようにして、

柔らかい風は通り抜けていく。

金曜日の仕事も終わり、夕方のお散歩は開放感に溢れていた。

もうすぐあの小さなパン屋さんが見えてくる。

明日になれば焼きたてのいい匂いとともに、可愛いパンたちにきっと出会えるのだ。

小さなパン屋さんなのだから、きっと可愛らしいパンを焼いているに違いない。

そんな想像をしながら、パン屋さんの前に差し掛かる。

お店の前に小さな木製の看板が出ている。同じく絵具で書かれたやつだ。

 

" OPEN "

 

「あれ?もう夕方の六時過ぎだよ?閉店してるはずじゃないの?」

一足早く可愛いパンたちに出会えるのだろうか。不意打ちではあるけれど

高まる期待感。

お店の扉に近づき、ドアノブに手を伸ばそうとしたその時、そこでふと足が止まった。

しまった。僕はお散歩にでかけるときは基本的にお財布を持ち歩いていない。

邪魔になるし、落としたら面倒なことになるからだ。

伸ばしかけた手を下ろして、この日も散るように歩き帰る金曜日の僕がいた。

やはり可愛いパンたちは土曜日に待っているようだ。

 

 

 

 ついに土曜日、待ちに待った土曜日の朝だ。

休みの日だから少し遅めに起きる。枕元に置いてある携帯を覗くと、

八時半を少しまわったくらいだった。身体を起こしてカーテンを開ける。

部屋の窓から外を眺めると、空は薄く灰色がかっていて小雨が降っている。

せっかく散歩をしながらパンを買いに行こうと思ってたのに外は雨だ。

でも、パンをおいしく味わうなら程よく身体を動かしてからの方がいいに

決まっている。少しの雨くらいなら傘をさして歩きで買いに行こう。

気軽に車で移動して、手軽に買ってしまったパンにはきっとそこまでの味わいはない。

どんなに作り手が上手くても、食べる側が準備できていなければ感動はチープなもので

終わってしまうと僕は思う。

本当に価値のあるものとは、苦労して手にしたものや、人と人とで共有したもの、

人から人への思いがたくさん詰まったものなどを指すのではないだろうか。

そうと決まれば身支度を整えて、お散歩の準備をしよう。

 

 

 

 

 パン屋さんまでの道中、人通りはすごく少なかった。

休日の朝、そしてこの雨とくれば無理もないだろう。

道路脇の木々の若葉から落ちた水滴がポタポタとアスファルトを打っては弾け、

それらは少し窪んだところへ流れ着き、水の溜まりをつくっていった。

踏切を渡り、駅を通り過ぎ、表通りを国道の方へ向かって歩いて行く。

透明なビニールの傘には水玉模様ができ、それをフィルターに眺める町は、

またひと味違った景色に映る。

だから、コンビニで買えるような透明な傘が僕は好きだ。

すぐ盗まれるけど。

 

 

 



 

 

そろそろパン屋さんにたどり着く。民家の陰に隠れるようにして

ひっそりと立たずむ小さな建物がそっと顔を出した。

入り口まで近づき傘を閉じた時だった。小窓のところにはいつもの木製の看板。

そして、

 

" CLOSED "

 

と絵具で書かれている。

それとは別に本日臨時休業と書かれた張り紙が窓ガラスに貼ってあった。

なるほど、どうやらおいしくて可愛いパンたちには簡単には出会えないらしい。

「あー、仕方ない。来週また来るか。」

もう一度傘を差しなおして、ポツポツとビニールに跳ね返る雨の音を聞きながら、

土曜日の僕は家に帰ることにした。

ふと頭の中で、ある音楽が流れ出し、想い想いに口ずさむ。

「Someday, over the rainblues. get bread, right?」

いつか、雨の憂鬱を乗り越えて、パンを買おうね?

名曲、Somewhere Over The Rainbow/虹の彼方へ。この曲に今の気持ちを添えて。

 

 

 

 

 

 思ったよりも一週間というものは早く過ぎるものである。

一週間後の土曜日の僕は、再び歩き始める。小さなパン屋さんの方へと。

さぁ行こう、虹の彼方へ。今日こそはおいしくて可愛いパンたちを買うのだ。

 

" OPEN "

 

今日は大丈夫であった。今朝は少し寝坊したので、

現在時刻は正午少し手前になってしまった。

それでもこうしてパン屋さんは待っていてくれたのだ。

ドアノブに手を伸ばし、扉を開けて中に入る。チリンチリン。

扉の店内側に吊るされた鈴が音を立てたのだ。

その瞬間、焼きたてのあのなんとも言えない香ばしい匂いが僕を包み込んだ。

こういう幸せ感を味わうためにスーパーやコンビニではなく、

パン屋さんに足を運んだのだ。これが大切である。

「いらっしゃいませ。」

レジにいた優しそうなおばあちゃんが声をかけてきた。

 

店内は正方形でとてもこじんまりしている。

お客さんが四人も入れば動けなくなってしまいそうだ。

壁側の棚には可愛い菓子パンや総菜パンが並べられていて、

真ん中のテーブルには食パンや創作パンなどがあった。

お昼近くになってしまったこともあり、さっそく売り切れたと思われる

空のトレーもあったりした。

お店の奥には入り口とは別に開けはなされた扉がもう一つあり、

そっちの部屋はパン工房になっている。

パン工房の中では、三十代くらいの女の人がひとりでパン生地を練っていた。

 

僕は入り口近くに設置されたトレーとトングを見つけると、

それを手に取り、トングをカチカチと数回鳴らした。カニのように。

僕はメロンパンが好きだ。あの可愛らしさと甘い匂い、柔らかい食感。

このお店にはメロンパンはあるだろうか?

壁側の棚を眺めてみると、そこにあった。ひとつだけ。最後のひとつだ。

まずはそのメロンパンを救出し、となりのシナモンロールもトレーに乗せた。

総菜パンの方を眺める。もちろんカレーパンも王道だ。

総菜パンコーナーからはカレーパン、コーンマヨパンをチョイスする。

チリンチリン。

入り口の方に目をやると、小学生くらいの女の子とそのお母さんが入ってきた。

女の子はトレーとトングをつかんで、お母さんに手渡しながら言った。

「ママ、今日は何がいいかな?」

ママは微笑みながら返す。

「秋那の好きなパンを二つまでね?いい?」

「うん、秋那はね、クリームパン。あとね、うーんと。」

女の子は菓子パンコーナーの方に行き、もう一つをどれにしようか

迷っているようだった。

 

僕はお会計するために、レジにトレーを持っていく。

「これでお願いします。」

おばあちゃんはトレーを預かって優しく対応してくれた。

「いらっしゃいませ、ありがとうございます。メロンパンがひとつ、

カレーパンがひとつ。」

とパンを数えてはレジのボタンを押して、パンを小さな小分けの袋に詰め始めた。

 

すると、後ろからさっきの女の子の声がした。

「ねぇ、ママ?メロンパンは?売り切れちゃったの?」

「そうね、もうないみたいだね。売り切れちゃったのかもね。」

「えー、秋那ここのメロンパン好きだから、メロンパンがいい。

次の焼かないのかな? 」

ママは少し困ったような顔をしながら、

店の奥でパン生地を練っている女の人に声をかけた。

「あの、メロンパンはまた焼きあがりますか?」

すると女の人は申し訳なさそうに答える。

「ごめんなさい、今日はもう終わりなんです。今日もけっこう焼いたんですけどね。

ひとりで作ってるので数が限られてしまうんです。すいません。」

ママも残念そうな顔をした。

「そうですよね。すいません、ありがとうございます。」

「秋那、今日はもう売り切れなんだって。メロンパンはまた今度にしようよ。」

秋那ちゃんと呼ばれた女の子も残念そうな顔をした。

「わかった。違うのにする。」

 

 

最後のメロンパンはおばあちゃんの手で袋詰めにされ、手提げ袋に入れられていた。

「お待たせしました、お会計が全部で六百八十円になります。」

僕はお財布から千円札を取り出したものの、おばあちゃんに声をかけた。

「あの、ちょっとメロンパン袋から出してもらっていいですか?」

おばあちゃんは僕に言われた通り、手提げ袋からメロンパンを取り出して僕に手渡した。

僕はそれを持って女の子の方へ向かった。

「秋那ちゃん、これでよかったらどうぞ。」

「え?でも、お兄ちゃんの方が順番先だったよ?」

「ううん、お兄ちゃんもメロンパン好きだけど、このメロンパンは秋那ちゃんに

食べてほしそうにしてるからさ、秋那ちゃんにあげる。」

秋那ちゃんはママの方を向いた。ママは微笑んでいる。

「秋那、お兄さん優しくてよかったね。

こういうとき何て言うんだっけ?」

「ありがとう。お兄ちゃん。」

秋那ちゃんは僕の方に向き直ってお礼を言った。

「娘のために、どうもありがとうございます。

でも、本当にいいんですか?」

ママも改めてお礼を言った。

「いいんです。また買いに来ますから。」

 

僕がレジに戻るとおばあちゃんが優しい笑顔をしていた。

「それじゃ、優しいお兄さんには十パーセント引きにしてあげましょう。

メロンパンを引いて五百円だから、割引して四百五十円になります。」

「すいません、ありがとうございます。」

ちょっと照れ臭かったけれど、割引してもらえてとてもラッキーだった。

人に親切にしてみるものである。

 

 

 

 お会計を済ませ店を出た僕は、メロンパンは買えなかったけれど、

満足感に溢れていた。やっぱりいいパン屋さんだと。

来た道を少し歩き始めると後ろから声がした。

「お兄ちゃん。待ってー。」

振り向くと秋那ちゃんが袋を手に持って走ってきた。

「はい、これ。秋那とメロンパン半分こしよう。」

秋那ちゃんの伸ばした手を見ると、半分になったメロンパンが二枚の袋に

それぞれ入っていた。

「おばあちゃんに半分にして入れてもらったの。

それと、お兄ちゃんはこの前の土曜日も買いに来たでしょう?」

何故そのことを秋那ちゃんが知っているのだろう。

「え?どうして知ってるの?」

「ほら、あそこにあるお家が秋那のお家だから。

学校がお休みの日は、おばあちゃんがお店を開けるところ、

二階の窓から見てるんだ。そしてママと買いに来るの。」

秋那ちゃんが指さした方を見てみると、道路を渡ってほんの少し歩いたところに

二階建ての可愛らしい家が建っていた。

「そうだったんだ。でもよくわかったね?」

「うん、だってお兄ちゃんのTシャツにおっきなリンゴあるでしょう?」

「あぁ、たしかに先週もこのTシャツだったかもしれないね。

ありがとう秋那ちゃん。メロンパンきっとおいしいね。」

秋那ちゃんは嬉しそうに頷いた。

「うん。あ、お兄ちゃんお名前は?」

「僕の名前は、楓。染山楓って言います。」

「楓兄ちゃん。またパン屋さん来てね。バイバイ。」

そう言うと、秋那ちゃんはママの方に走って行った。

母娘は手を繋ぐとお家の方へ歩いて行った。

道路を渡るときに秋那ちゃんはもう一度こっちを見ると手を振った。

僕も秋那ちゃんに手を振り返し、家に向かって来た道を歩き出した。

きっと子どもの頃に必要なのは、こういうものなのだろう。

 

 

 

 僕はいつも夕方にお散歩をしている。

毎日、ある程度同じルートを歩くけれど、

たまには気分転換に知らない道も歩いてみる。

そうするとこういう景色にも出会ったりする。

もうすぐ地平線に沈みそうになるオレンジ色の太陽が

さらさらと流れる柔らかい風に吹かれた小麦たちを

そっと黄金色に染め上げていた。

「Somewhere over the light brown/小麦色の彼方へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※rainbluesは造語です。

 

 

雨乃秋

 

 

 

 

18/100

 完璧な静けさだと思った。

遠く聞こえる川の流れ、木々の揺らぎ、初夏のゆるやかに抜ける風の声、

都市部には決して生息することはない。そんな類の静けさだ。

ひとの気少ない山間にある温泉町を歩く、道の途中で見つけた静かな空間。

そのギャラリーはこじんまりしていて、来る誰かを望んでいる素振りはなかったが、

開け放された引戸の入り口は涼しげで、内に入るとそこには確かな趣きが存在し、

人知れず隠された芸術性はひっそりと息をして生きていた。

オーナーらしき人影はなく、むしろオーナーが不在であること、

それこそがこのギャラリーの完成に必要なものであった。

 

 




 

 

 

 五月の気持ちよく晴れた空の下をのんびりと車が走る。

もう何年もこの道をドライブしている。

何ヶ月かに一度、少し長いドライブがしたくなると、

決まってこの道を走る。これといった理由とか目的とかもなく、

ただのらりくらりと。そんなドライブも10年くらいになるのだろうか。

慣れたものだ。

道中はとくに立ち寄る場所もないのだが、

広がる自然の風景や表情が眼に心地よく感じるのと、

この道路が描く緩やかな曲線美を眺めるのが個人的に好きだったりする。

例えば、途中にあるレストランのあの料理が美味しいだとか、

道路沿いのあのカフェや雑貨屋さんがお洒落で可愛いだとか、

あの場所から眺める景色が絶景だとか、そこにある何かを求めて車を

走らせるというような、本来的なものは僕のドライブにはない。

ただなんとなくこの道路を走っていて気持ちいい。

そういう感覚的なドライブなのだ。

ある意味ではその道そのものを求めているもかもしれないけど。

 

 

 

 つい先週も同じようにドライブを楽しんでいた。

「セブン・シックス・ポイント・フォー・エフ・エム、レディオ・ベリー

(76.4FM RADIO BERRY)」

車のオーディオからはラジオパーソナリティーの滑らかな英語が聞こえる。

十代の頃は、自分の好きな音楽を流していたけれど、

最近はラジオから流れてくる自分の知らない音楽に出会うのが新しくて面白い。

もしくは、聴かなくなった懐かしいナンバーや、聞き覚えはあるけれど名前の知らない

ナンバーに出会うこともまた発見だったりする。

「本日のテーマはズバリ、ずっと気になっているあのお店。

いつも通りかかるけど入ったことはない、はたまた外見が怪しくて立ち寄るにも

立ち寄れない。でもついつい気になってしまう。そんなお店に関するあれこれや、

お店にまつわるストーリーをお待ちしてしています。」

ラジオパーソナリティーの軽快なトークが続く。

 

そんなラジオトークを聞きながらふと考える。ドライブの途中いつも通り過ぎる

古い温泉町に、気になる蕎麦屋があったことを。

営業してるのかもよく知らないが、なんとなくその風景を思い出した。

「でもなー、もうお昼過ぎちゃったしなー。」

そんな独り言を車内で呟きながら、その日は来た道を帰った。

しかし、家に帰っても何故かその蕎麦屋のことが気になって仕方がなかった。

来週も予定はないし、試しに温泉町を散策でもしてみるか。

そんなことを考えている自分がいるのであった。

 

 

 

 

 

 信号が青に替わると、交差点を左に曲がってしばらく走る。

午前中の柔らかな日差しが、緑々した木々の隙間から木漏れ日となって、

ハンドルを握る僕の腕を点々と照らしては流れていった。

滑らかなカーブの先に覆道が見えてくる。

覆道とは、雪崩や落石から道路を守るために設けられた

柱が等間隔に立ち並ぶトンネルのことをいう。

 

天気の良い晴れた日にこの覆道を走り抜けると、柱と柱の間から光が

差し込み、それが道路の曲線と混ざり合ってこれもまた美しいと僕は思う。

 

二つ目の覆道を抜けると、温泉町はすぐそこだ。

今回の目的である蕎麦屋にたどり着くと、意外にもお店の駐車場は満車であった。

「あれ、こんなに人気だったのか。」

仕方なくお店を通り過ぎたが、近くに無料の市営駐車場があったので

そっちに車を停めて歩くことにした。

 

店内に入ると、蕎麦屋らしい落ち着いた和の雰囲気に心がそっと和む。

道路側の窓に面した四、五名座りの座敷の席が三つ、

店の中央部に五、六名掛けのテーブル席が同じく三つ、

そして奥の方に障子で仕切られた囲炉裏の座敷が二ヶ所あった。

狭くもなく、広過ぎもせず、接客が行き渡るくらいの丁度いい店の広さだと思う。

僕はひとりで来たので、入り口から一番近いテーブル席に案内され、

同じようにひとりで来ていた中年の男性と対角線上に相席することになったが、

テーブルが割りと長いのでこれも特には気にならなかった。

 

メニューを広げ一通り眺めてはみるが、実はすでに注文するものは決まっている。

念のため、昨日のうちにスマホでどんなお店なのか、メニューは何があって、

値段がどれくらいなのか調べてあったからだ。

僕はお店の看板メニューである変わりダレの蕎麦と、単品でけんちん汁を注文した。

 

料理を待っている間は、店内の造りや装飾であったり、

店内にいる他のお客さんをのんびり眺めていた。

スマホは見ない。せっかく長閑な温泉町の蕎麦屋に来たのだから、

日常ではなく、その場の雰囲気を楽しみたいと思うからである。

向かい側のテーブル席では、温泉客なのか定年を過ぎたくらいの

二人組のおじちゃんが、ざるに盛られた蕎麦と天ぷらを食べ、

ボトルで頼んだ地酒を焼物で酌み交わしているようだった。

奥の囲炉裏席は、予約席と木目の立札が置いてあり、誰も座って居なかった。

座敷の奥側は、就学前くらいの小さな女の子を連れた夫婦が座り、

真ん中には、これも温泉を楽しみに来たであろう四人連れの家族が居た。

そして、僕と同じ列の座敷席には会話するでもなく、スマホをいじっている

会社勤め風の割りと若い二人組の青年が座っていた。

 

しばらくすると向かい側のおじちゃん達は、荷物からデジタルカメラを取り出し、

旅の思い出にとお互いに写真を撮り合い始めたのが微笑ましかった。

スマホではなくデジタルカメラなあたりが、妙におじちゃんらしくて好感を

抱かずにはいられず、しげしげと眺めてしまう自分がいた。

友人だろうか、兄弟だろうか。兄弟にしては似ていない気がする。

 

 

 

 

 

 蕎麦もけんちん汁も美味しかった。

和食は出汁の風味が優しく、野菜も本来の味や食感が楽しめるところがいい。

まさかこんなお店がドライブコースにあったとは。

お腹いっぱいになった僕は店を後にして、温泉町を散策してみることにした。

狭い温泉町だから写真を撮りながら(ここはスマホなのだが)でも、

一時間もあればぐるりと散策することができる。

そして、駐車場に戻る道の途中にギャラリーと書かれた看板があった。

人が居そうな気配はなく、何についてのギャラリーなのかもわからない上、

入っていいものかと躊躇してしまうような雰囲気だが、

近づいてみると、張り紙がしてあった。

「ご自由にお立ち寄りください。」

その言葉に安心して内に入ってみると、

見学者も居なければオーナーさえもいなかった。

広くないコンクリートの小部屋に、何枚かの抽象画が壁に掛けられいて、

これといった説明書きや作者の紹介もなかった。

メッセージ性は乏しかったが、物静かな誰もいないその空間は不思議と心地よく、

いつまでも画を眺めていられるような気にさせた。

いくつか部屋がある内の一角に、一人掛けの作業机と椅子が置かれているのに

気がつき、僕はその椅子に座ってみることにした。

誰かが来る気配もなく、時間がゆったりと流れているような心地よさを

感じた瞬間、僕はふとある衝動に駆られた。ここで本を読んでみたい。

初めて立ち寄った場所で、あたかも自分のアトリエでもあるかのように机に向かい、

本を読んでいる自分を想像する。馬鹿げているが、好奇心の方が一歩先を歩いている。

思い立った僕は、近くの駐車場に停めてある車へ本を取りに戻った。

 

 

 

 

 

  もう一度ギャラリーに入る手前、

辺りを見回してみたがやはり人の気配はなかった。

先ほどの椅子に座り直し、読みかけの本を読み始める。

完璧な静けさだと思った。

遠く聞こえる川の流れ、木々の揺らぎ、初夏のゆるやかに抜ける風の声、

都市部には決して生息することのない。そんな類の静けさだ。

この完成された静けさはなんだろうか。

本を読むためだけに造り出された空間と言ってもいい程に、

時間を忘れ物語に没頭してしまう。

オーナーもここで本を読んだりしたことがあるのだろうか。

 

「あの…」

そんな空想をしていると、頭の上の方からいきなり女の子の声がして、

僕は飛び上がりそうになりかけたが、寸前のところで身体を制御した。

しかし、動揺は隠せきれずに手から本が逃げて床へ落ちる。

「あの、大丈夫ですか?驚かせてしまってすいません。」

女の子は本を拾い上げながら、微かな笑みと少し心配そうな眼差しを

僕に投げかけた。

おそらく大学生くらいだろうと僕は思った。

「あ、すいません。本に集中するあまり気づかなくて。

あ、小さなギャラリーですが、どうぞゆっくり見学して行ってください。」

僕は本を受け取りながら、咄嗟に嘘をついた。

あたかも自分の開いているギャラリーでもあるかのように。

「ありがとうございます。小さくて可愛らしいギャラリーですね。

こんな秘密基地みたいな場所があったなんて。少しだけ見学させて頂きます。」

大学生くらいの彼女はそう言うと、壁に掛けられた作品をゆっくり眺めて周った。

僕は落ち着きを取り戻し、もう一度本を読む姿勢を取ったが、

彼女の足音や気配が気になって集中することができなくなってしまった。

生きた静けさは山の魚のように逃げて行ってしまったようだ。

 

十分もしないうちにギャラリーを一周した彼女は、もう一度声を掛けてきた。

「ありがとうございました。やっぱりここは静かで落ち着きますね。

本を読むのにも丁度いいかもしれませんね。」

「そうですね、あまりお客さんも来ないのでこうしてゆったり本を読む時間は、

心地いいですよ。」

すると彼女は、静かに笑い出した。

「あれ?僕、何か可笑しなことでも言いました?」

僕はわけがわからず、彼女に問いかける。

「いえ、何でもないです。ただ、楓さんはここのオーナーではないですよね?」

突然、彼女の口から僕の名前が飛び出してきて僕は面食らってしまった。

どこかで彼女に会ったことがあっただろうか。いや、ないはずである。

嘘を見破られてしまい呆気に取られていると、また彼女は話し出した。

「初めまして、私は涼風秋那といいます。大学の美術サークルで絵を描いたり

しています。実はここの作品も私が。だから、本当のオーナーさんも知ってます。」

「あ、それで。すいません、そうとは知らずに、つい嘘を。

あまりに静かな場所だったので、どうしても本を読みたくなってしまって。

でも、どうして僕の名前を?」

すると彼女は、入り口にある名記帳を指差して言った。

「今日の来展者はひとりしか記入されていなかったので、たぶんそうだと思って。

驚きましたか?」

彼女は悪戯っぽく笑って見せた。

 

この日の嘘が、僕が彼女についた最初の嘘であり、

彼女が僕についた最初の嘘だった。

そして、彼女のその悪戯っぽい笑顔をこれから幾度も見ることになる。

そんなことは、この時の僕はまだ知らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ステルス

部屋のテーブルにはタブレット状の薬が散らばっていた。

ケミカルな空気の散乱。

空になったポカリスエットのボトルと、置き去りのグラスが数個。

透明なグラスは洗われることを望んでいたが、それが与えられることもなくただ空虚しく光っていた。

閉め切られた窓に、風にゆれることのないカーテン。抜け殻のような部屋。

 

「あー。重い。」その日はやけに身体が重かった。

なんでこんなに身体が重いのだろう。まるで全身を流れる血液から、大切な要素が抽出されて、残った赤い水溶液だけが戻されたかのように、身体からエネルギーというものがごっそりなくなっていた。

 

 

昨日の仕事を終えたあたりから、うっすらとその重い影の気配を感じ取ってはいた。

僕は年間を通してもほとんど体調を崩さないので、身体はその乱れに対してとても敏感に察知するようにできていた。

今は仕事も忙しくなるべく穴は空けたくなかった。こういう時は、水分をよく取って薬を飲んで寝てしまうのがいい。

病院は嫌いだった。その性格から、体調が悪くなりそうな時は重症化する前に、市販の薬を飲んで対処するようにしていた。そうしていれば、そんなに苦しくもならずにやり過ごすことができたのだ。

 

今回もそうやってやり過ごすことができる予定だった。その自信があった。

しかし朝起きてみると、あの影が消えていないことに気が付いた。消えていないどころか少し大きくなっている気がした。身体が少し熱っぽい。しかし、仕事に穴を空けるわけにはいかないのだ。

これくらいなら十分に仕事できるだろうと思って出社した。

実際に出社して仕事をしてしまえば、僕に憑きまとっていたあの影のことなんて忘れてしまった。体調不良なんてそんなものだ。

無事に一日の仕事をやり終えて家に帰る。

帰りの車の中で、仕事疲れもあって運転をしながら少し意識がぼーっとした。

会社から家まではほんの十五分程度である。たいした道のりでもない、家に着くのはすぐだった。

車を降りてキーを閉める。アパートの二階の部屋まで足取りは少し重たかった。

部屋の鍵を開けて中に入る。鞄を床に投げ出し、ソファに倒れ込んだ。

すごく疲れていた。身体の重さ、頭を駆け巡る不快な鈍痛。静かな部屋にいるはずなのに、静かすぎて耳が痛かった。

気を紛らわせるために、リモコンでテレビをつける。

 

北朝鮮の度重なるミサイル発射を牽制するため、米韓合同の軍事演習が行われました。」

夕方のニュース番組だ。

北朝鮮のミサイル実験が度重なり、メディアはここ連日ずっと北朝鮮の話題である。

 

「また一方、ロシアではステルス機を使用しての軍事演習が行われ、この動きには過熱するアメリカの軍事演習を牽制する狙いがあるとしています。」

「それでは次に、明日のお天気を観ていきましょう。」

 

 

ステルス... ステルス... ステルス...。

頭の中でこの単語が何度も何度も現れては消えていくを繰り返している。

僕の身体の中ですでに隠れた戦闘機が攻撃を開始しているような気がした。

捉えることのできない侵略者として。

 

 

 

 

 

 

 

ものを書き始める。

はじめまして。

Akiです。

 

右とか左とか。

前なのか後ろなのか。

 

 

ものを書いてみようと思います。

空想だったり、時事ネタだったり、レビューだったり、

とにかく思いついたことなんでも。

 

 

 

お散歩みたいな感じでぶらりと。

 

すれ違ったらこんにちは。

そんな感じで読んでもらえたらと思います。

 

 

短編小説とか憧れます。

いきなり話が終わるあの感じとか。

 

長編小説とか果てしない気がします。

素直にすごい。

 

 

 

では。