パン屋さんのパンをおいしく味わうにあたって

 せっかくの機会だから、パンのおいしい食べ方について

考えてみようと思ったわけだが、

せっかくの機会だから、ここではパン屋さんのパンを

おいしく食べるということに焦点を合わせてみたいと思う。

だって、せっかくの機会なのだから。

 

 

 

 そもそもパンとはなんだろうか。

なぜにこんなにふんわりと幸せみたいなものが詰まっているのだろう。

「パン」このたった二文字という短い名前に閉じ込められたおいしさは

計り知れないのだ。

ガムやイモ、マメとかでは満たされない。そう、パンでなければ。

二文字のおいしい食べ物の代表格、代名詞と言っていいはずであり、

僕はきっとパン以外に思いつかないだろう。

試しにそれらを並べてみてもいいが、そう例えば...

コメ、そば、ピザ、すし、カニ、にく、エビ。

はてさて、これはどうしたものか。どれも旨そうだ。

意外にもおいしい二文字が現れ始めてしまったではないか。

いや、これではいけない。このままではパンを語るせっかくの機会なのに

挫折してしまうではないか。気をしっかり持て、いいか?代名詞とはパンだ。

そう、ここはパンでなければ。

 

 

 

 朝食にパンとコーヒー。もしくはミルク。

これは日常のありふれた風景だと思う。

スーパーやコンビニに行けば、安価でいつでも買えるし、

ある程度なら日持ちもする。手軽な食べ物だ。

でも、やっぱりおいしいパンを食べるのであれば、

パン屋さんに行くのが一番である。

そして、せっかくパン屋さんに行くなら、

パン屋さんのパンをおいしく味わう方法を選ぶべきである。

ここからストーリーは始まるのだ。

 

 

 

 僕はいつも夕方にお散歩をしている。

仕事が終わって家に向かう疲れたサラリーマンや、

下校する中高生、夕飯の買い物に行くお母さんと子ども、

犬とお散歩するお年寄りたちとすれ違う。

毎日、ある程度同じルートを歩くけれど、

たまには気分転換に知らない道も歩いてみる。

そうすると新しい発見があったりして、長年住み慣れた町なのに、

まだまだ知らない町の風景があることに気づかされる。

というのも、テナントが入れ替わっていたり、新しいコンビニができたり、

田んぼだったところが分譲地になって、新築住居が立ち並んでいたり、

昔からずっとあったお店が閉店したり、空地になったりと、

町の風景は、季節のように移り変わっているからだ。

 

つい先日もそうだ。

僕の知らないうちに、町の駅前通りには小さなパン屋さんができていた。

車で走っていては気づかずに通り過ぎてしまうほど小さいし、

目立つような看板もない。

ひっそりと立たずむパン屋さん。いつからあったのだろう。

お店の雰囲気があまりに可愛かったから、

どんなパンを作って販売しているのかとすごく気になった。

お店の外壁にある小窓に目をやると、小さな木製の看板が置いてあって、

絵具で営業時間が書いてあった。

 

" 10:00~16:30 水・日休み "

 

「夕方五時前に閉まっちゃうんじゃ、土曜日にしか買えないな。」

そんなふうにして、火曜日の僕は独り言を夕暮れの空にそっと投げかけて、

小さなパン屋さんの前から散るように歩いて帰った。

つまり散歩とは、そういうものでもあるということだ。

どうやらおいしいパンは土曜日に待っているようだ。

 

 

 

 五月も終わりの夕方の風は、梅雨を目前にしてほんのり涼しい。

散歩道に並んだ木々の若葉や、畦道(あぜみち)の草花を撫でるようにして、

柔らかい風は通り抜けていく。

金曜日の仕事も終わり、夕方のお散歩は開放感に溢れていた。

もうすぐあの小さなパン屋さんが見えてくる。

明日になれば焼きたてのいい匂いとともに、可愛いパンたちにきっと出会えるのだ。

小さなパン屋さんなのだから、きっと可愛らしいパンを焼いているに違いない。

そんな想像をしながら、パン屋さんの前に差し掛かる。

お店の前に小さな木製の看板が出ている。同じく絵具で書かれたやつだ。

 

" OPEN "

 

「あれ?もう夕方の六時過ぎだよ?閉店してるはずじゃないの?」

一足早く可愛いパンたちに出会えるのだろうか。不意打ちではあるけれど

高まる期待感。

お店の扉に近づき、ドアノブに手を伸ばそうとしたその時、そこでふと足が止まった。

しまった。僕はお散歩にでかけるときは基本的にお財布を持ち歩いていない。

邪魔になるし、落としたら面倒なことになるからだ。

伸ばしかけた手を下ろして、この日も散るように歩き帰る金曜日の僕がいた。

やはり可愛いパンたちは土曜日に待っているようだ。

 

 

 

 ついに土曜日、待ちに待った土曜日の朝だ。

休みの日だから少し遅めに起きる。枕元に置いてある携帯を覗くと、

八時半を少しまわったくらいだった。身体を起こしてカーテンを開ける。

部屋の窓から外を眺めると、空は薄く灰色がかっていて小雨が降っている。

せっかく散歩をしながらパンを買いに行こうと思ってたのに外は雨だ。

でも、パンをおいしく味わうなら程よく身体を動かしてからの方がいいに

決まっている。少しの雨くらいなら傘をさして歩きで買いに行こう。

気軽に車で移動して、手軽に買ってしまったパンにはきっとそこまでの味わいはない。

どんなに作り手が上手くても、食べる側が準備できていなければ感動はチープなもので

終わってしまうと僕は思う。

本当に価値のあるものとは、苦労して手にしたものや、人と人とで共有したもの、

人から人への思いがたくさん詰まったものなどを指すのではないだろうか。

そうと決まれば身支度を整えて、お散歩の準備をしよう。

 

 

 

 

 パン屋さんまでの道中、人通りはすごく少なかった。

休日の朝、そしてこの雨とくれば無理もないだろう。

道路脇の木々の若葉から落ちた水滴がポタポタとアスファルトを打っては弾け、

それらは少し窪んだところへ流れ着き、水の溜まりをつくっていった。

踏切を渡り、駅を通り過ぎ、表通りを国道の方へ向かって歩いて行く。

透明なビニールの傘には水玉模様ができ、それをフィルターに眺める町は、

またひと味違った景色に映る。

だから、コンビニで買えるような透明な傘が僕は好きだ。

すぐ盗まれるけど。

 

 

 



 

 

そろそろパン屋さんにたどり着く。民家の陰に隠れるようにして

ひっそりと立たずむ小さな建物がそっと顔を出した。

入り口まで近づき傘を閉じた時だった。小窓のところにはいつもの木製の看板。

そして、

 

" CLOSED "

 

と絵具で書かれている。

それとは別に本日臨時休業と書かれた張り紙が窓ガラスに貼ってあった。

なるほど、どうやらおいしくて可愛いパンたちには簡単には出会えないらしい。

「あー、仕方ない。来週また来るか。」

もう一度傘を差しなおして、ポツポツとビニールに跳ね返る雨の音を聞きながら、

土曜日の僕は家に帰ることにした。

ふと頭の中で、ある音楽が流れ出し、想い想いに口ずさむ。

「Someday, over the rainblues. get bread, right?」

いつか、雨の憂鬱を乗り越えて、パンを買おうね?

名曲、Somewhere Over The Rainbow/虹の彼方へ。この曲に今の気持ちを添えて。

 

 

 

 

 

 思ったよりも一週間というものは早く過ぎるものである。

一週間後の土曜日の僕は、再び歩き始める。小さなパン屋さんの方へと。

さぁ行こう、虹の彼方へ。今日こそはおいしくて可愛いパンたちを買うのだ。

 

" OPEN "

 

今日は大丈夫であった。今朝は少し寝坊したので、

現在時刻は正午少し手前になってしまった。

それでもこうしてパン屋さんは待っていてくれたのだ。

ドアノブに手を伸ばし、扉を開けて中に入る。チリンチリン。

扉の店内側に吊るされた鈴が音を立てたのだ。

その瞬間、焼きたてのあのなんとも言えない香ばしい匂いが僕を包み込んだ。

こういう幸せ感を味わうためにスーパーやコンビニではなく、

パン屋さんに足を運んだのだ。これが大切である。

「いらっしゃいませ。」

レジにいた優しそうなおばあちゃんが声をかけてきた。

 

店内は正方形でとてもこじんまりしている。

お客さんが四人も入れば動けなくなってしまいそうだ。

壁側の棚には可愛い菓子パンや総菜パンが並べられていて、

真ん中のテーブルには食パンや創作パンなどがあった。

お昼近くになってしまったこともあり、さっそく売り切れたと思われる

空のトレーもあったりした。

お店の奥には入り口とは別に開けはなされた扉がもう一つあり、

そっちの部屋はパン工房になっている。

パン工房の中では、三十代くらいの女の人がひとりでパン生地を練っていた。

 

僕は入り口近くに設置されたトレーとトングを見つけると、

それを手に取り、トングをカチカチと数回鳴らした。カニのように。

僕はメロンパンが好きだ。あの可愛らしさと甘い匂い、柔らかい食感。

このお店にはメロンパンはあるだろうか?

壁側の棚を眺めてみると、そこにあった。ひとつだけ。最後のひとつだ。

まずはそのメロンパンを救出し、となりのシナモンロールもトレーに乗せた。

総菜パンの方を眺める。もちろんカレーパンも王道だ。

総菜パンコーナーからはカレーパン、コーンマヨパンをチョイスする。

チリンチリン。

入り口の方に目をやると、小学生くらいの女の子とそのお母さんが入ってきた。

女の子はトレーとトングをつかんで、お母さんに手渡しながら言った。

「ママ、今日は何がいいかな?」

ママは微笑みながら返す。

「秋那の好きなパンを二つまでね?いい?」

「うん、秋那はね、クリームパン。あとね、うーんと。」

女の子は菓子パンコーナーの方に行き、もう一つをどれにしようか

迷っているようだった。

 

僕はお会計するために、レジにトレーを持っていく。

「これでお願いします。」

おばあちゃんはトレーを預かって優しく対応してくれた。

「いらっしゃいませ、ありがとうございます。メロンパンがひとつ、

カレーパンがひとつ。」

とパンを数えてはレジのボタンを押して、パンを小さな小分けの袋に詰め始めた。

 

すると、後ろからさっきの女の子の声がした。

「ねぇ、ママ?メロンパンは?売り切れちゃったの?」

「そうね、もうないみたいだね。売り切れちゃったのかもね。」

「えー、秋那ここのメロンパン好きだから、メロンパンがいい。

次の焼かないのかな? 」

ママは少し困ったような顔をしながら、

店の奥でパン生地を練っている女の人に声をかけた。

「あの、メロンパンはまた焼きあがりますか?」

すると女の人は申し訳なさそうに答える。

「ごめんなさい、今日はもう終わりなんです。今日もけっこう焼いたんですけどね。

ひとりで作ってるので数が限られてしまうんです。すいません。」

ママも残念そうな顔をした。

「そうですよね。すいません、ありがとうございます。」

「秋那、今日はもう売り切れなんだって。メロンパンはまた今度にしようよ。」

秋那ちゃんと呼ばれた女の子も残念そうな顔をした。

「わかった。違うのにする。」

 

 

最後のメロンパンはおばあちゃんの手で袋詰めにされ、手提げ袋に入れられていた。

「お待たせしました、お会計が全部で六百八十円になります。」

僕はお財布から千円札を取り出したものの、おばあちゃんに声をかけた。

「あの、ちょっとメロンパン袋から出してもらっていいですか?」

おばあちゃんは僕に言われた通り、手提げ袋からメロンパンを取り出して僕に手渡した。

僕はそれを持って女の子の方へ向かった。

「秋那ちゃん、これでよかったらどうぞ。」

「え?でも、お兄ちゃんの方が順番先だったよ?」

「ううん、お兄ちゃんもメロンパン好きだけど、このメロンパンは秋那ちゃんに

食べてほしそうにしてるからさ、秋那ちゃんにあげる。」

秋那ちゃんはママの方を向いた。ママは微笑んでいる。

「秋那、お兄さん優しくてよかったね。

こういうとき何て言うんだっけ?」

「ありがとう。お兄ちゃん。」

秋那ちゃんは僕の方に向き直ってお礼を言った。

「娘のために、どうもありがとうございます。

でも、本当にいいんですか?」

ママも改めてお礼を言った。

「いいんです。また買いに来ますから。」

 

僕がレジに戻るとおばあちゃんが優しい笑顔をしていた。

「それじゃ、優しいお兄さんには十パーセント引きにしてあげましょう。

メロンパンを引いて五百円だから、割引して四百五十円になります。」

「すいません、ありがとうございます。」

ちょっと照れ臭かったけれど、割引してもらえてとてもラッキーだった。

人に親切にしてみるものである。

 

 

 

 お会計を済ませ店を出た僕は、メロンパンは買えなかったけれど、

満足感に溢れていた。やっぱりいいパン屋さんだと。

来た道を少し歩き始めると後ろから声がした。

「お兄ちゃん。待ってー。」

振り向くと秋那ちゃんが袋を手に持って走ってきた。

「はい、これ。秋那とメロンパン半分こしよう。」

秋那ちゃんの伸ばした手を見ると、半分になったメロンパンが二枚の袋に

それぞれ入っていた。

「おばあちゃんに半分にして入れてもらったの。

それと、お兄ちゃんはこの前の土曜日も買いに来たでしょう?」

何故そのことを秋那ちゃんが知っているのだろう。

「え?どうして知ってるの?」

「ほら、あそこにあるお家が秋那のお家だから。

学校がお休みの日は、おばあちゃんがお店を開けるところ、

二階の窓から見てるんだ。そしてママと買いに来るの。」

秋那ちゃんが指さした方を見てみると、道路を渡ってほんの少し歩いたところに

二階建ての可愛らしい家が建っていた。

「そうだったんだ。でもよくわかったね?」

「うん、だってお兄ちゃんのTシャツにおっきなリンゴあるでしょう?」

「あぁ、たしかに先週もこのTシャツだったかもしれないね。

ありがとう秋那ちゃん。メロンパンきっとおいしいね。」

秋那ちゃんは嬉しそうに頷いた。

「うん。あ、お兄ちゃんお名前は?」

「僕の名前は、楓。染山楓って言います。」

「楓兄ちゃん。またパン屋さん来てね。バイバイ。」

そう言うと、秋那ちゃんはママの方に走って行った。

母娘は手を繋ぐとお家の方へ歩いて行った。

道路を渡るときに秋那ちゃんはもう一度こっちを見ると手を振った。

僕も秋那ちゃんに手を振り返し、家に向かって来た道を歩き出した。

きっと子どもの頃に必要なのは、こういうものなのだろう。

 

 

 

 僕はいつも夕方にお散歩をしている。

毎日、ある程度同じルートを歩くけれど、

たまには気分転換に知らない道も歩いてみる。

そうするとこういう景色にも出会ったりする。

もうすぐ地平線に沈みそうになるオレンジ色の太陽が

さらさらと流れる柔らかい風に吹かれた小麦たちを

そっと黄金色に染め上げていた。

「Somewhere over the light brown/小麦色の彼方へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※rainbluesは造語です。

 

 

雨乃秋