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 完璧な静けさだと思った。

遠く聞こえる川の流れ、木々の揺らぎ、初夏のゆるやかに抜ける風の声、

都市部には決して生息することはない。そんな類の静けさだ。

ひとの気少ない山間にある温泉町を歩く、道の途中で見つけた静かな空間。

そのギャラリーはこじんまりしていて、来る誰かを望んでいる素振りはなかったが、

開け放された引戸の入り口は涼しげで、内に入るとそこには確かな趣きが存在し、

人知れず隠された芸術性はひっそりと息をして生きていた。

オーナーらしき人影はなく、むしろオーナーが不在であること、

それこそがこのギャラリーの完成に必要なものであった。

 

 




 

 

 

 五月の気持ちよく晴れた空の下をのんびりと車が走る。

もう何年もこの道をドライブしている。

何ヶ月かに一度、少し長いドライブがしたくなると、

決まってこの道を走る。これといった理由とか目的とかもなく、

ただのらりくらりと。そんなドライブも10年くらいになるのだろうか。

慣れたものだ。

道中はとくに立ち寄る場所もないのだが、

広がる自然の風景や表情が眼に心地よく感じるのと、

この道路が描く緩やかな曲線美を眺めるのが個人的に好きだったりする。

例えば、途中にあるレストランのあの料理が美味しいだとか、

道路沿いのあのカフェや雑貨屋さんがお洒落で可愛いだとか、

あの場所から眺める景色が絶景だとか、そこにある何かを求めて車を

走らせるというような、本来的なものは僕のドライブにはない。

ただなんとなくこの道路を走っていて気持ちいい。

そういう感覚的なドライブなのだ。

ある意味ではその道そのものを求めているもかもしれないけど。

 

 

 

 つい先週も同じようにドライブを楽しんでいた。

「セブン・シックス・ポイント・フォー・エフ・エム、レディオ・ベリー

(76.4FM RADIO BERRY)」

車のオーディオからはラジオパーソナリティーの滑らかな英語が聞こえる。

十代の頃は、自分の好きな音楽を流していたけれど、

最近はラジオから流れてくる自分の知らない音楽に出会うのが新しくて面白い。

もしくは、聴かなくなった懐かしいナンバーや、聞き覚えはあるけれど名前の知らない

ナンバーに出会うこともまた発見だったりする。

「本日のテーマはズバリ、ずっと気になっているあのお店。

いつも通りかかるけど入ったことはない、はたまた外見が怪しくて立ち寄るにも

立ち寄れない。でもついつい気になってしまう。そんなお店に関するあれこれや、

お店にまつわるストーリーをお待ちしてしています。」

ラジオパーソナリティーの軽快なトークが続く。

 

そんなラジオトークを聞きながらふと考える。ドライブの途中いつも通り過ぎる

古い温泉町に、気になる蕎麦屋があったことを。

営業してるのかもよく知らないが、なんとなくその風景を思い出した。

「でもなー、もうお昼過ぎちゃったしなー。」

そんな独り言を車内で呟きながら、その日は来た道を帰った。

しかし、家に帰っても何故かその蕎麦屋のことが気になって仕方がなかった。

来週も予定はないし、試しに温泉町を散策でもしてみるか。

そんなことを考えている自分がいるのであった。

 

 

 

 

 

 信号が青に替わると、交差点を左に曲がってしばらく走る。

午前中の柔らかな日差しが、緑々した木々の隙間から木漏れ日となって、

ハンドルを握る僕の腕を点々と照らしては流れていった。

滑らかなカーブの先に覆道が見えてくる。

覆道とは、雪崩や落石から道路を守るために設けられた

柱が等間隔に立ち並ぶトンネルのことをいう。

 

天気の良い晴れた日にこの覆道を走り抜けると、柱と柱の間から光が

差し込み、それが道路の曲線と混ざり合ってこれもまた美しいと僕は思う。

 

二つ目の覆道を抜けると、温泉町はすぐそこだ。

今回の目的である蕎麦屋にたどり着くと、意外にもお店の駐車場は満車であった。

「あれ、こんなに人気だったのか。」

仕方なくお店を通り過ぎたが、近くに無料の市営駐車場があったので

そっちに車を停めて歩くことにした。

 

店内に入ると、蕎麦屋らしい落ち着いた和の雰囲気に心がそっと和む。

道路側の窓に面した四、五名座りの座敷の席が三つ、

店の中央部に五、六名掛けのテーブル席が同じく三つ、

そして奥の方に障子で仕切られた囲炉裏の座敷が二ヶ所あった。

狭くもなく、広過ぎもせず、接客が行き渡るくらいの丁度いい店の広さだと思う。

僕はひとりで来たので、入り口から一番近いテーブル席に案内され、

同じようにひとりで来ていた中年の男性と対角線上に相席することになったが、

テーブルが割りと長いのでこれも特には気にならなかった。

 

メニューを広げ一通り眺めてはみるが、実はすでに注文するものは決まっている。

念のため、昨日のうちにスマホでどんなお店なのか、メニューは何があって、

値段がどれくらいなのか調べてあったからだ。

僕はお店の看板メニューである変わりダレの蕎麦と、単品でけんちん汁を注文した。

 

料理を待っている間は、店内の造りや装飾であったり、

店内にいる他のお客さんをのんびり眺めていた。

スマホは見ない。せっかく長閑な温泉町の蕎麦屋に来たのだから、

日常ではなく、その場の雰囲気を楽しみたいと思うからである。

向かい側のテーブル席では、温泉客なのか定年を過ぎたくらいの

二人組のおじちゃんが、ざるに盛られた蕎麦と天ぷらを食べ、

ボトルで頼んだ地酒を焼物で酌み交わしているようだった。

奥の囲炉裏席は、予約席と木目の立札が置いてあり、誰も座って居なかった。

座敷の奥側は、就学前くらいの小さな女の子を連れた夫婦が座り、

真ん中には、これも温泉を楽しみに来たであろう四人連れの家族が居た。

そして、僕と同じ列の座敷席には会話するでもなく、スマホをいじっている

会社勤め風の割りと若い二人組の青年が座っていた。

 

しばらくすると向かい側のおじちゃん達は、荷物からデジタルカメラを取り出し、

旅の思い出にとお互いに写真を撮り合い始めたのが微笑ましかった。

スマホではなくデジタルカメラなあたりが、妙におじちゃんらしくて好感を

抱かずにはいられず、しげしげと眺めてしまう自分がいた。

友人だろうか、兄弟だろうか。兄弟にしては似ていない気がする。

 

 

 

 

 

 蕎麦もけんちん汁も美味しかった。

和食は出汁の風味が優しく、野菜も本来の味や食感が楽しめるところがいい。

まさかこんなお店がドライブコースにあったとは。

お腹いっぱいになった僕は店を後にして、温泉町を散策してみることにした。

狭い温泉町だから写真を撮りながら(ここはスマホなのだが)でも、

一時間もあればぐるりと散策することができる。

そして、駐車場に戻る道の途中にギャラリーと書かれた看板があった。

人が居そうな気配はなく、何についてのギャラリーなのかもわからない上、

入っていいものかと躊躇してしまうような雰囲気だが、

近づいてみると、張り紙がしてあった。

「ご自由にお立ち寄りください。」

その言葉に安心して内に入ってみると、

見学者も居なければオーナーさえもいなかった。

広くないコンクリートの小部屋に、何枚かの抽象画が壁に掛けられいて、

これといった説明書きや作者の紹介もなかった。

メッセージ性は乏しかったが、物静かな誰もいないその空間は不思議と心地よく、

いつまでも画を眺めていられるような気にさせた。

いくつか部屋がある内の一角に、一人掛けの作業机と椅子が置かれているのに

気がつき、僕はその椅子に座ってみることにした。

誰かが来る気配もなく、時間がゆったりと流れているような心地よさを

感じた瞬間、僕はふとある衝動に駆られた。ここで本を読んでみたい。

初めて立ち寄った場所で、あたかも自分のアトリエでもあるかのように机に向かい、

本を読んでいる自分を想像する。馬鹿げているが、好奇心の方が一歩先を歩いている。

思い立った僕は、近くの駐車場に停めてある車へ本を取りに戻った。

 

 

 

 

 

  もう一度ギャラリーに入る手前、

辺りを見回してみたがやはり人の気配はなかった。

先ほどの椅子に座り直し、読みかけの本を読み始める。

完璧な静けさだと思った。

遠く聞こえる川の流れ、木々の揺らぎ、初夏のゆるやかに抜ける風の声、

都市部には決して生息することのない。そんな類の静けさだ。

この完成された静けさはなんだろうか。

本を読むためだけに造り出された空間と言ってもいい程に、

時間を忘れ物語に没頭してしまう。

オーナーもここで本を読んだりしたことがあるのだろうか。

 

「あの…」

そんな空想をしていると、頭の上の方からいきなり女の子の声がして、

僕は飛び上がりそうになりかけたが、寸前のところで身体を制御した。

しかし、動揺は隠せきれずに手から本が逃げて床へ落ちる。

「あの、大丈夫ですか?驚かせてしまってすいません。」

女の子は本を拾い上げながら、微かな笑みと少し心配そうな眼差しを

僕に投げかけた。

おそらく大学生くらいだろうと僕は思った。

「あ、すいません。本に集中するあまり気づかなくて。

あ、小さなギャラリーですが、どうぞゆっくり見学して行ってください。」

僕は本を受け取りながら、咄嗟に嘘をついた。

あたかも自分の開いているギャラリーでもあるかのように。

「ありがとうございます。小さくて可愛らしいギャラリーですね。

こんな秘密基地みたいな場所があったなんて。少しだけ見学させて頂きます。」

大学生くらいの彼女はそう言うと、壁に掛けられた作品をゆっくり眺めて周った。

僕は落ち着きを取り戻し、もう一度本を読む姿勢を取ったが、

彼女の足音や気配が気になって集中することができなくなってしまった。

生きた静けさは山の魚のように逃げて行ってしまったようだ。

 

十分もしないうちにギャラリーを一周した彼女は、もう一度声を掛けてきた。

「ありがとうございました。やっぱりここは静かで落ち着きますね。

本を読むのにも丁度いいかもしれませんね。」

「そうですね、あまりお客さんも来ないのでこうしてゆったり本を読む時間は、

心地いいですよ。」

すると彼女は、静かに笑い出した。

「あれ?僕、何か可笑しなことでも言いました?」

僕はわけがわからず、彼女に問いかける。

「いえ、何でもないです。ただ、楓さんはここのオーナーではないですよね?」

突然、彼女の口から僕の名前が飛び出してきて僕は面食らってしまった。

どこかで彼女に会ったことがあっただろうか。いや、ないはずである。

嘘を見破られてしまい呆気に取られていると、また彼女は話し出した。

「初めまして、私は涼風秋那といいます。大学の美術サークルで絵を描いたり

しています。実はここの作品も私が。だから、本当のオーナーさんも知ってます。」

「あ、それで。すいません、そうとは知らずに、つい嘘を。

あまりに静かな場所だったので、どうしても本を読みたくなってしまって。

でも、どうして僕の名前を?」

すると彼女は、入り口にある名記帳を指差して言った。

「今日の来展者はひとりしか記入されていなかったので、たぶんそうだと思って。

驚きましたか?」

彼女は悪戯っぽく笑って見せた。

 

この日の嘘が、僕が彼女についた最初の嘘であり、

彼女が僕についた最初の嘘だった。

そして、彼女のその悪戯っぽい笑顔をこれから幾度も見ることになる。

そんなことは、この時の僕はまだ知らない。